もりけん語録集(『ハンドルを手放せ』編)
そうでない時、お陰さんはあなたに代わって責任を取るでしょう。もしそうでなければ、私たちは瞬間を生きられません。
(陰さん(かげさん))
努力をしている時に出会うことはありません。目標に向かっている時にも出会うことはありません。誰でもないあなたになった瞬間、あなたは神と一致します。
(船井総研に行ってきました)
神は「分離」させました。人間は「合一」させます。 自然は分離しています。男と女、ブラスとマイナス、父なる神と母なる神。
私たち人間は、それを合一するために存在しているのかも知れません。
(神との遭遇)
お陰様はむしろ、ルールに反している時、傍にいます。人が地獄に行く時、お陰様は最も近くにいます。地獄を一緒に体験するのが母なる神です。
(お陰様は女性的)
なぜなら母なる神は言葉を越えています。ルールがない、罰もない、賞賛もない、ただそこには無限の慈悲があります。
運命を作るのが父なる神だとすれば、運命を受け入れるのは母なる神です。
(お陰様は女性的)
人間は「自由を獲得したいという欲求」と同程度の「自由から逃げたい」という欲求があるのではないかと思います。自由ほど怖いものはないかも知れません。自由がなければ自殺なんてないかも知れません。
(エクスタシー)
幸福になるには対象が必要だと思っていました。しかし対象も何もないのに受ける幸福感もあるのだと知りました。これは究極のオナニーかも知れません。
宗教でもなく、ドラッグでもなく・・です。
(エクスタシー)
「自由」がひとりでに行動を起こし、「自由」がひとりでに選択し、何の責任も残らない。
この「何の責任も残らない」というのがキメ手です。選択と未来と責任は、セットになっています。
(責任)
三次元で努力し、五次元で無努力でいくためには、プラス六次元の強い神と、マイナス六次元のお陰様の、両方が必要なのです。
一人の人間の中には、男性的要素と女性的要素があります。その両面を満たす必要もあるのです。
(両面・・二つの神)
メイン州のペルメトリンを購入する場所
この世で苦しんでいる人の元にも、彼女はいます。その人が泣いている時は、一緒に泣いています。だって、彼女にはそれしか出来ないのですから・・。男性神のようなパワーを与えられてはいないのですから・・。
(お陰様)
お陰様は元のエネルギーが小さいですから、ほんの少しエネルギーを与えるだけで良いのです。それだけで彼女はとても嬉しくなってしまうのです。
そして救われない人が瞬間を生きているとき、フッと入り込むのです。
(成長)
宗教によって神が違います。それはフォーカスの上部にいる神の違いのような気がします。どこかで定義できるのです。分かりやすいのです。言葉に出来るのです。
しかし世界が誰も定義できなかったもの、それがお陰様のような気がします。
(未完の意見)
ひょっとすると、私達の前世はユミット星だったのかも知れません。そして「今度は、善も悪もある地球という星で、もっと素晴らしい体験をしたい」と言って来たのかもしれません。どちらが「優良星」でしょうか?
(宇宙人ユミット)
意志や人格はエゴになるはずです。しかし神はエゴではないと思います。
神は自分自身を定義できないはずです。どこにも自我という線を引けない。なぜなら全体は、おそらく∞だから。
(陽の神様)
しかし、本当の自分という響きには甘美なものがあるでしょう。誰にも侵略されていない、本当の自分・・。
それがねぇ、たぶん逆なんですよ。本当の自分は、本来のエゴとしての自分を失った時・・。
(真面目な話)
一般的に言われているような「善人」にはなっていないと思います。むしろ「悪人」に近づいているのではないでしょうか。
おそらくそれは、私が自分の欠点を100%認める人間になったからです。
(私のエゴ)
しかし本当はデセンションしなければならないのではないでしょうか。
悪魔の次元にまで降りて、神と融合させなければならないのではないでしょうか。
お陰様は悪魔ととても仲がいい、そう思えて仕方がありません。
(悪魔)
2は犬の世話をする方法
あなたが瞬間に行う行為の中には、神も悪魔も善も悪も陰も陽も全てが入っているのです。だから善だけを選択しようとすると、悪が罪悪感となり、ストレスを発生させるのです。選択をするという行為の中には、もはや、自由なあなたはありません。
(悪魔)
人は長いこと連続性とかアイデンティティとかを重要視し過ぎました。そういうものは、過去との繋がりです。昨日と今日で、正反対のことを言ってもいいんです。
(選択と自由)
ある人を「私のもの」と考える限り、失ったときの悲しみが大きいのでしょう。私のものと考えなければ解放されます。
人は誰のものにもなることは出来ません。親子関係しかり、結婚しかり・・。
(成長の予感以来)
フォーカス35に至るまで私が仮に「陽の世界」と名付けた領域では、全てエゴが残ります。私達は死んでもエゴからは解放されません。
だから、だから、エゴを否定しない方法があるんじゃないかと・・ふと思ったのです。
(成長の予感以来)
私たち人間はなぜ知性を持っているのかということです。なぜ科学を持っているかということです。これらは既に悟った人達のほとんどが否定している要素です。
しかし彼らより我々現代人の方が自由だと思ったのです。
(とんでもない欲望)
エデンから出続けるとはどういうことかと言うと、人間として完成し続けているのです。つまりそこから一歩出たから終わりではないのです。
それは子供がお母さんから生まれ出てから、死ぬまで成長し続けるのと同じです。
(エデンからの脱出)
明治維新によって、日本人は士農工商というエデンから一歩外に出たのです。
こうやって、歴史はエデンから遠ざかる方向に進化します。これは良いことなのです。
(エデンからの脱出)
私はカップルがうまくいくかどうかは、孤独の度合いが同じかどうかにかかっているのではないかと思います。
一方が孤独感が多く一方が少ないのは、問題が多いのです。人は自分ようにしか相手を愛せないからです。
(エデンの園からの脱出2)
時間というものが存在する意識の次元から、再び瞬間に戻るのです。すると瞬間の状態が変わっている・・。そう、フィードバックのようなものです。
(気づいた予感)
毛布の紹介システムは何ですか
しかし、やはり外側なのです。外側に心を開くことなのです。内側じゃない、外側です、あくまでも。外側に心を開いた時、「私」がここにあってはいけません。「私」は対象物の中にあります。
(気づいた予感)
「あること」を認めてしまうと、権力側にとって不利になるからだという論旨もありますが、私は人間が自ら「あること」を捨てたいのではないかと思えてなりません。
(社会使命と正義)
それに殺人が悪だとするのは、正義感に他ならないと思います。正義感の方がよっぽど悪だと思います。正義感は自分が正直になることを阻みます。だから法律をなくせば、世の中は良くなると思います。
(善悪の基準)
究極の 自由と究極の逃避は、形態はほとんど同じだと思います。
ブッダとキリストは究極の自由を説きました(と思います)が、その方法が究極の逃避に似ているため、後世の宗教組織では、逃避側に傾いたのではないでしょうか・・。
(自由からの逃避)
他人の視点がなければエゴは出てこないというのが私の考えです。だけどあなた自身であることには代わりありません。無人島だろうが社会の中だろうが、あなたはあなたです。
だとすれば、エゴは観念として創造されたもの考えることが出来るのではないでしょうか。
(エゴ)
光には始まりと終わりがあり、闇は永遠だったのです。光は存在、闇は非存在です。
私達はいつも存在していたいと思う、だから光を求めている。光がエゴだった・・。
(光と闇)
科学的な悟り方・・そういうものがあるような気がしてなりません。
六次元サイドを宗教的悟りだと名付け、知性サイドを科学的悟りと名付ければ、この二つの悟りが融合しない限り、地球は分裂してしまうのではないでしょうか・・。
(二つの悟りの融合)
生きているうちは、全てが経過です。だから理解したと思った瞬間、それは過去のものとなります。過去は死んでいます。
(私の精一杯)
今、私は悩んでいます。ずっと一つの命題を・・悩んで悩んで悩み通しています。
しかし震えるくらいに面白いです。何故でしょうか?理由は一つ、前人未踏の地だからです。
(私の精一杯)
昔、全てが「悟って」いれば、なぜ歴史という時間の流れが必要なのでしょうか?あの時点で歴史は終わっていてもいいはずです。
何かが不完全だから、こうして物質として残っているのではないでしょうか?
(仏陀・キリストを超えた悟り)
家庭を捨てて、一方では茨の道を歩いて悟ったノウハウは、ごく普通の私達には分からないというわけです。
本当の悟りは、ごく普通の生活で起こるものだと思います。
(仏陀・キリストを超えた悟り)
しかし神から人格が無くなると、私たちは根底で繋がっている方に、より焦点が当てられると思います。この場合、宇宙に存在理由はなくなり、目的もなくなるはずです。目的がなくなると瞬間に生きることが可能になり、愛も生まれるわけです。自動的に・・。
(距離の差)
本当の悟り、あるいは自分の存在理由は、普通の生活の中でこそ分かるのかも知れないと思いました。難しい知識など要らないのです、きっと・・。
(自分の存在理由)
何故かと言うと、人は常に融合した状態ではあり得ないのです。『不思議の科学』の一図には「ダイナミック」という言葉が書かれていると思いますが、まさに人は� ��ダイナミックにしか融合できないのです。
(孤独感)
戻ることは出来ます。逃避的な方法で自己を忘れればいいのです。それが嫌なら、前に進むしかありません。
前に進むこと・・それは自発的な行為の中にしか自然と一体になる方法はないと思ったのです。今でもそれは変わりません。
(私がエデンから出たのは高校2年)
時空が無限なら、私は死ぬまで無限に前進したい。生きるということは、静的ではなく、動的だと思うのです。
一度悟ってENDではなく、悟り続けること・・変化の中で生を楽しむこと・・。
(私がエデンから出たのは高校2年)
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